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更新日:2016年3月31日

史跡七尾城跡

七尾城の概要

七尾城跡は、能登国の守護・畠山氏(1408-1577)が16世紀前半(戦国時代)に築いた城館跡で、全国でも屈指の規模を有します。石動山系に築かれた城域は南北約2.5km、東西約0.8km、面積は約200haにおよび、一帯は「城山」と呼び親しまれています。

山上から山麓までの自然地形を巧みに利用し、七尾の地名の由来となった七つの尾根筋を中心に多数の曲輪(屋敷地)を連ね、山麓には城下の町並みが形成され京風の能登畠山文化が華やぎました。

天正5年(1577)の上杉謙信の攻撃によって落城、169年にわたる畠山氏の領国支配の幕が閉ざされました。落城後の七尾城は、一時、上杉方が入り、その後、天正9年(1581)に織田信長から能登一国を与えられた前田利家が入城します。天正10年(1582)から17年(1589)頃に、港に近い小丸山での新たな築城により、七尾城は城としての機能を失うこととなりました。

七尾城本丸

七尾城本丸CG

七尾城本丸

七尾城本丸CG

遺構の概要

本丸からは七尾湾や能登半島が一望できます。本丸の標高は305m、城下が50mで山上と城下の比高は約250mあります。

 

七尾城本丸2

 

七尾城本丸からの風景

城の状況

七尾城は能登畠山氏の居城で、能登の政治、文化の拠点として機能しました。築城時期は明確ではありませんが、各地の有力大名がその拠点を山城に移す16世紀前半頃には能登畠山氏も遅れることなく、七尾城を築き支配体制を固めたと考えられます。

府中の守護所(現在の市街地付近)の南西約4kmの石動山系の要害に「七尾城」、その麓に城下町「七尾」を築いて、山上山下が一体となる新しい拠点を形成し、一元的な大名支配を目指しました。こうした能登畠山氏の拠点の移動は、守護大名から戦国大名への変貌を遂げようとした能登畠山氏の変革を物語るものとして位置づけられます。

桜馬場

往時を偲ぶ石垣(桜馬場(さくらのばば))

能登畠山氏

足利氏一門の有力武士で、越中の守護を務めていた畠山基国が室町時代の初めの明徳2年(1391)に能登の守護に任命され、その後、河内、紀伊の守護も兼務しました。応永5年(1398)には室町幕府の管領に起用され、斯波氏・細川氏と三管領の一つとしての地位を築いています。

能登畠山氏は、基国の次男・満慶が、治めていた四か国(河内・越中・紀伊・能登)のうち、応永15年(1408)に能登国のみの守護となったことをはじまりとします。当時、守護は在京し、領国では守護代の遊佐氏が府中の守護所(現在の市街地付近)で政務にあたっていました。

応仁・文明の乱(1467-1477)後の文明10年(1478)に、守護・畠山義統が能登に下向、在国し分国経営の基礎を固めました。3代義統、7代義総のとき、領国支配は安定し、公家や歌人などの多くの文化人が、都から七尾に訪れました。府中の義統邸や七尾城内の義総邸では、たびたび和歌や連歌の会が催されました。連歌1
文明15年(1483)賦何船連歌(県指定文化財 七尾市蔵)


 

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お問い合わせ

所属課室:教育委員会文化課

石川県七尾市袖ケ江町イ部25番地

電話番号:0767-53-8437

ファクス番号:0767-52-5194

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